
今年のすみれグループのお泊り会では、弥三郎婆のお話をしてみました。
いろいろなお話のストーリーが伝わっているのですが、できるだけシンプルなストーリーにしてみました。
自分の母親が熊や狼を飼いならす山姥で、その山姥が襲った若い男が自分の息子と知らず、また、襲われた息子の方も自分の母親と知らずに対決し、「ヤサブロババ」という言葉で「なんで俺の名前が?」と疑問を持つストーリーはとてもおもしろいのですが、今回は見送りました。いずれ長い素話を聞くことが出来るようになってきたら、そのお話をしても良いかもしれません。
弥三郎が熊うちの名人ということにして、熊をたくさん撃ち殺していることから、熊や狼を操る弥三郎婆は憎い熊殺しの男を捕まえてしまおうとしているストーリーにしてみました。
家に帰って弥三郎が切り落とした腕を見せると、本性を表した山姥が逃げて行くところや、自分の母親がすでに食い殺されているところなど、なんとなく後味が悪い気もしますが、昔話にはそういうものも数多くあります。
様々な「教訓」が昔話には含まれていると言われていますが、子どもたちにはそのストーリーの中の登場人物や、その場面のイメージを頭の中で描いてほしいと思っています。
過去にもブログで書いたのですが、素話を楽しむときには耳から聞いたことを頭の中で映像化出来る力が大切になります。その力は相手の言葉を理解出来る力に繋がります。また、頭の中のイメージを言葉にする力の基礎にも繋がります。
「やばい」の言葉だけで何でもかんでも「処理」してしまう最近の若者言葉には強い危機感を感じています。
多様な言葉を知らずに大人になる(すでに大人になっている人もいるかもしれません)ことは、周りの人から「残念な人」と見られてしまうかもしれません。
また、自分と相手の感性・感覚・情報などが共通であれば「やばい」の1単語だけで同じイメージを持つことが出来るかもしれません。ところが大人になったら自分とは全く違う世界で生き、経験や人間関係を持つ人とコミュニケーションを取らなければならず、そのときに「やばい」しか使えない人とはコミュニケーションを取ることが出来ません。
「あの人とは話が通じない」と言われるのか、逆に自分が言うのか、どちらにしてもハッピーではないなぁと感じています。
お話を楽しむことで言葉に親しんでほしいと常々思っています。
自分の知らない言葉もお話の中で使われている、絵本の中で見たことがあるというきっかけがあれば、言葉の世界が広がります。広がった世界では更に知らない言葉が溢れています。そして、その広い世界には今まであったことのないような人たちが住んでいて、その人達と関わることで、自分の世界も広がっていきます。
保育園での素話が、将来様々な可能性を見つけることが出来る世界への入口になってくれればと願います。






